俺の、実の姉に対する複雑な感情を吐露します。

「まじでお姉ちゃんのこと嫌いだし」

俺のその言葉に母は悲しそうな顔をして、そんなこと言うもんじゃないよ、と呟く。家族なんだから。胸が痛む、が、それが正直な気持ちなんだから仕方がない。ただ、思ったこと(感じたこと)を、それが相手を不快にさせると判っていながら口に出す俺は今年二十歳になるにも関わらず、精神的にはまだクソガキなんだろう。

姉に対する印象は、情緒不安定、それに尽きる。年頃の女の子は皆そうかもしれない。

 

ただ彼女は万年生理不順のような少女時代を送っていた。確かに当時の俺は今以上にクソ生意気なガキだったし、無知な馬鹿だったし、床オナしまくって精子の臭いを常に垂れ流していた。自慰を繰り返す俺の顔と体型は醜くたるみ、澱んだ目には生気が無かった。そりゃあ姉も嫌悪感を抱くだろう。しかしそれにしても彼女は弟たちに、否、身内全体に厳しかった。従姉妹は食事の席で当時の姉を「ゴジラ」と形容する。さすがに本人の前では口に出さないが、そのワードは言い得て妙だと思う。

母は、幼い頃から姉は弟である俺と兄の面倒を見なければならないと躾けられ、何をするにしても後回しであったと語る。その反動で、あの不安定な学生時代があったんじゃないか、と。幼少時の事は俺の記憶も曖昧だが、確かにそうかもしれない。姉はいつも気負いがちというか、自らプレッシャーを高めるような節があった事を覚えている。俺ならどんなに悩んでいても寝て目が覚めた時には「なんとかなる」と思えるが、彼女の場合は違ったらしい。いつもストレスで胃を痛めていた。姉の後に入るトイレは臭かった。ただ外面だけは本当に良くて、写真に残るその顔はいつも笑っている。

結局、俺は姉を、何も知らない子供の頃からずっと「自分よりも歳上で、立派な姉」と認識しているから。彼女もその辺を歩いている女の子たちのように、時には悪いこともするし、欲に負けることもある。脆い面もある。叩けば壊れるようなウィークポイントが存在する。そんな普通の女性――人間であるという事を見落としがちだから。俺は認識と現実のギャップを受け入れられず「姉が嫌い」という言葉を吐き出すのだろう。

しかし姉が思春期だった頃は本当に凄かった。兄がルーンファクトリーをしているとゲームのしすぎだと叱り、口喧嘩になった挙げ句、彼のDSを床に叩き付けて粉砕した。飛び散る破片。その時の衝撃は今もなお俺の記憶に焼き付いている。泣き叫ぶ兄、慰める祖母。謝りなさいと言われた姉は無言で居間を飛び出し、壊れるんじゃないかという勢いでドアを閉めると、二階の自室に引きこもった。後日兄はDSLiteを買ってもらっていた。と、このように姉は俺達がゲームやパソコンを弄っていると必ず良い顔はしなかったし、生活習慣に関して注意してくる事が多かった。早く起きろ、勉強しろ、運動しろ……今になって考えると彼女は自分の中に「理想の弟」像があって、それを俺達に押し付けようとしていたんじゃないかと思う。単に世間一般的に見てだらしない弟達に我慢ならなかったのかもしれないが。

こんなふうに例を挙げるとキリがない。姉の不満、怒り、そういった負の感情は当人の胸の中に溜まり、それでも受け止めきれない部分が溢れ出して俺達に牙を向いた。そのくせ機嫌が良い時、彼女は「仲が良くて幸せな姉弟」を演出しようとした。兄がどう思っていたのかは知らない。ただ俺はその二面性がどうしても気に入らず、自分に向けられる姉の笑顔にも曖昧に返していた。

まあ兄もそれなりに暴れた。俺は自分ではおとなしかった方だと思っているが、本当の所は当人ではわからない。女の子の方が思春期は凄まじいと聞くが、姉以外のケースを知らないから、彼女が特別酷かったのかは判断を下しづらい所は多少ある。ちなみに現在立派に働いている従姉妹はその時期になってもこれといって反抗もせず、ずっと親と仲が良かったらしい。不思議だ。

で、そんな姉が去年の夏頃に、男を連れて実家を訪れたのだった。大学を卒業し社会人一年目のことだった。ちょうど俺はその時バイトをしていたので、直接話を聞いた訳ではない。後になって訊いてみると――予想はしていたが、所謂「娘さんをください」がその場で行われていたのだった。俺はその話を聞いても、働き始めたばかりなのに早いなとか結婚式っていつやるのとか、ワンチャン義理の妹が出来るかも、といった事しか考えなかった。家族の一人が誰かの新しい家族になるというのは初めての経験で、実感はあまり湧かなかった。ちょっとしたイベントのように捉えていた。彼女が大学生の頃からずっと遠い地で過ごしていて顔を合わせる機会が少なくなったのも原因の一つだった。旦那になる予定の男に対しても漠然とした興味があるだけで、深い感情は抱いていなかった。当然だ、会ったことも無いんだから。

だから、あの時は驚いた。

俺と母が何気なく入ったミスドでドーナツを頬張りながら、この前は驚いたよねとか他にどんなこと話したのと談笑していた時、おもむろに告白されたのだった。

「お姉ちゃん、子供いるの」

一瞬理解が出来なかった。そして直後にグレープソーダを喉につまらせた。それを見て母は笑った。

子供。こども。その言葉を飲み込んでなお、俺の中でロジックは組み立てられなかった。だって、これから結婚するんだよね。それなのに子供ってどういう。母は笑いながら告白した。めでたいことのように。俺も訳のわからない笑いを返した。しかし感情はまとまりきっていない。一種のパニック状態といってもよかった。過度のオナニーと睡眠不足のせいで普段は弛緩している脳髄も興奮していた。

やがて頭が落ち着く。姉は子供ができた、聞いた話だと二ヶ月目だという、そして母も含めて家族一同見ず知らずだった男が挨拶に来たのが数日前。これらのことが意味するのは――

「それって、デキ婚ってこと」

「まあ、そうなるね」

母は笑っている。俺は衝撃を隠せない。

取り敢えず男のパーソナルデータを訊いてみると、姉よりも歳下だということ、姉弟が多いということ、父親と別居して母親と一緒にアパートで暮らしていたが今は姉のアパートに同棲しているということ、父親の職場で働いていて、自立するという目的も兼ねて新しい就職先を探しているということ。

俺は聞けば聞くほどその男が不甲斐ない奴に思えてきて仕方がなかった。同棲っていうか、姉の部屋に転がり込んでいるってことじゃないか。だが外出先ということもあり、感情はあまり昂ぶらなかった。昂ぶらせなかった。しかし、紛れもなく俺の中で、何かが起こっていた。母は笑っていた。しかしそれは後になって顔が笑っているだけだったと知る。俺以上に、親である彼女の胸中には凄まじいものがあっただろう。そんな当然の事も想像できずに、ミスドを後にした俺はバイト先に車で送ってもらった。

その夜、母と並んで夕飯を食べていた。当然のごとく姉の話になった。俺は夜まで母と話したことを反芻していたのだった。そして自分がそれを聞いて何を感じ、思ったのかを朧気ながらに掴みかけていた。最初に俺は母に怒りはないのかと責めるような口調で言った。顔も知らない、どんな性格なのかも知らない、そんな何も知らない男に娘を奪われて怒りはないのか。結局、姉に子供ができたから男と当人も流石にのっぴきならない事態だと感じて、それでも二ヶ月間渋って、今になってようやく足を運んできたんじゃないのか。結局、彼女達は危機管理もせずに快楽のまま中出しセックスしたからこんなことになったんじゃないのか。結局、結局、結局――俺は繰り返した。隣りにいる母はこちらを見ずに、黙って話を聞いていた。俺の感情はこの数年無かったくらい昂ぶり、そして。

そして俺は泣いていた。なんで?

それは勝手に流した涙だった。ただ、姉に裏切られた、という気持ちがそこにはあった。

「ただただ悲しいわ、俺は……」

姉は模範的な生活を俺に強いようとしてきた。親孝行をしろよと口を酸っぱくして言われた。俺が不登校になった時やワガママをした時はお母さん泣かせるなよと怒られた。彼女は大学生になって少し気性が落ち着くと、急に母に対して気遣うようになり、バイトで稼いだ金でディズニーランドに招待したりしていた。

そんな姿を見てきた俺だから、今回の計画性がまったくない件に関して強いショックを受けていて、あの日の夜ついに限界を迎えたのだと今はわかる。新しい生命の誕生、家族が子供を授かった、それはめでたいことなんだろう。――しかし姉がやった事は間違いなく親孝行ではなく、親不孝だった。俺にとって、姉がしでかした独断的な行為は家族への裏切りに感じた。少なくとも、たった一人しかいない親を本当に思いやっているのならこんな事は出来ないと。幾らでも避妊が出来るこの時代、子供は作ろうと思わなければ作れない。意図しないと生まれない。彼女は快楽の欲望に負けたのか、安易な考えだったのか、それとも深い事情があるのか、それは本人の口からでないと判明しない。しかし、姉がこの事態を自らの手で選択したというのは誰がなんと言おうと確かだった。

その程度なのか、その程度だったんだな。という言葉が嗚咽とともにこぼれ落ちた。家族への恩――愛はその程度だったんだな。俺はなんだかんだ言って姉を尊敬していて、家族として愛していたんだとその時悟った。そして鼻水が垂れた。

しかし今になって思う。母の前で姉を責めるのは間違いだったと。彼女は俺が抱いた感情をとうの昔に抱き、涙を流して悩み、嘆き、悲しみ、そしてなんとか受け入れて、ようやく俺に対して事実を告白したのだ。俺の行為はいわば治りかけの傷口を抉っているようなものだった。誰よりも激情を抱いたのは誰かなんて少し考えればわかる。母にとって姉の話をこのように蒸し返されるのは何よりも苦痛だっただろう。だが俺の感情の捌け口は母しか居なくて、それを彼女も理解していたから、黙って話を聞いていてくれたんだと思う。

俺は姉を直接責めて、論破して、しばき倒してやると母に怒鳴った。しかし子供が出来た今の姉の身体は繊細な母体であり、強いショックを受けると命に関わる危険性さえ存在する。だから今は我慢して、と母は言った。頷くしか無かった。そして枕を涙で濡らした。

目が覚めたら昨日の激情は何だったのかというくらい落ち着いていた。俺はパソコンを起動させるとエロサイトでサクッと一発抜いてから、ニコニコの淫夢動画を見て笑っていた。

 

いくら俺達が嘆いても子供は生まれてくるし、その小さな身体に罪はない。俺は釈然としない気持ちを引きずりながらも受け入れるしか無かった。姉は入籍を終え、名字が変わった。変な感じだった。姉の出産が近くなる。こっちには祖母や俺が居るし面倒を見てあげられるから帰ってこいと電話したが、彼女は向こうで産むことを選んだ。姉は自分の選択を曲げない人間だ。

結局、何事もなく子供は生まれるのだが、性別は女の子だった。俺はそれを聞いて頷き、誰も見ていない所で歓喜の舞を踊った。姪っ子かと。将来、エロマンガのような展開があるかもしれぬと。もし甥っ子だったら俺はお年玉すらあげない気で居たのだった。

そんな俺は姉に対して怒りと嫌悪を捨てきれずに居た。口論にでもなったら、良い機会だとばかりに今回の件を持ち出して黙らせるだろうなという確信がある。ただ意気地のない俺だから、彼女に対しても、そして旦那に対しても何も強いことを言えないんじゃないかという不安もある。しかし俺の抱いた感情は客観的に見ても正しいものであるという自信があるので――いや、この話はもうよそう。実際に姉と会ってみないとわからない。その時俺が何を感じ、何を思うかなんて。

そして今に至る。四月に入って暖かくなったら姉は娘を連れて家に顔を見せに来るらしい。しかし俺は一人暮らしで忙しいだろうから、会うことは叶わないだろう。旦那の顔は写真で見ただけで実際に目にしたのは母と祖母だけである。俺は初めて会った時にぶん殴れるように今から身体を鍛えておこうと思っている。