3.11 ~当時、幼かった俺が経験したあの悲劇~ 【東日本大震災】

3.11。

東日本大震災

東北住みの俺は、その恐怖を如実に体感した。

 

俺はパソコンの前で濡れたちんこを乾かしながら、あの大震災を思い返す。

 当日、俺は卒業式で歌う「旅立ちの日」の練習をしていた。ひな壇に並ぶ小学生の姿を厳しく睨みつける先生達。どうして彼等は卒業式の歌練習となると昭和の鬼コーチのように喚き散らすのだろうか。当時の俺もその様子には恐怖よりも一種の疑念を抱いていたことを覚えている。

サビを迎え、子供達の声は最高潮のテンションを迎える。

ここで微かな揺れに気が付いたのは俺を含めて数人だった。

明らかに足元が振動しているように感じた。俺は途中で歌うのを止めて、誰かこの異変に気が付いては居ないかと周囲を見回した。皆、口を大きく開いて歌声を轟かせている。もしかしたら、皆の声が大きいせいで空気が震えているだけなのかもしれない。浅薄な理科の知識でそう結論づけようとしたが――次第に揺れは大きく、確実なものとなっていった。流石に他の生徒も数人それに気が付き、戸惑いの表情で顔を見合わせた。大部分の者達は機械のように前を向いて歌っている。しかし当然のごとく、全体的な歌声は小さくなっていた。

ここで、俺が最も印象に残っている場面が訪れる。

練習を指導していたヒステリック気味の女教師が、

「歌ええええええ!!!歌えって!!!!!!」

と叫びだしたのだ。

それは異様な光景だった。明らかに強い揺れに襲われているのにも関わらず、サビを歌い切らせようと強いる教師の姿。その言葉に従い、声を張り上げる小学生たち。足元のひな壇はガタガタと振動し、その揺れの強さを物語っていた。

やがて揺れは看過できないものとなり、子供達は悲鳴を上げてひな壇を駆け下りた。体育館の中心に集まり、天地がひっくり返るような揺れに必死に耐える。巨大な化物が地球をむんずと掴み、某握力トレーニング用品の如くシェイクしているのではないかと錯覚するような地震だった。

俺はカッコつけるわけではないが、やけに冷静だった。周りの生徒達が俺の分まで怯えてくれていたからだ。

 

やがて揺れは収まり、グラウンドに避難することになった。このような生命の危機すら感じさせる事件が起こった時、普段は生意気な生徒も大人(教師)の言葉に粛々と従うようになる。恐怖からか、しくしくと泣く女子達。その時何か声を掛けていれば俺は童貞を卒業していただろう。

雪の降る中、迎えを待つ者達を残して、俺は同じ町内に住む奴らと一緒に集団下校した。街はしんと静かだった。俺達は学校いつまで休みになるのかなとか、そんなくだらないことを話していた。大きな地震だったけど、誰も怪我しなかったし、まあ大したことないだろ。

――俺は知らなかった。同じ東北が、一度は足を運んだことのあるあの場所が、大きな被害に襲われたということ。津波がどれほどの脅威となるのかなんて、今まで考えたこともなかった。原子力、という単語もあの時初めて知ったのだった。

 

家に帰るとそこはいつもどおりだった。祖母も変わりなかった。物一つ倒れなかった。祭りの屋台で取った亀吉(♀)も元気だった。

しばらくして兄、姉、そして母が家に帰ってきた。近所に住む叔父と叔母も家に来た。一堂に会する親族。ちょっとしたイベント気分で俺ははしゃいでいた。正直、そこに居た大人たちも事態の脅威を理解しきれていなかっただろう。それは無理もなく、電話すら禄に出来ない状況だったのだ。震源地がどこかすら想像の域を出なかった。

そして母のガラケーがテレビを表示した。寄り集まった俺達は多大なる興味を抱いてその小さな画面を覗いた。

正直、その時の内容はよく覚えていない。ただ大人たちがそれを見て「これは酷い」「凄いからちょっとこっち来て見なさい」「うわあ……やばいよ」といった声を漏らしていたことは記憶している。

停電。ガスストーブが唯一の温もりだった。と言っても人の熱気もあり、部屋は案外寒くなかった。騙しだまし起動していたゲーム機の充電は限界を迎え、俺は兄弟と寝転んで将棋を指していた。やがて暗くなり、蝋燭の火が灯される。俺はその光を初めは珍しく眺めていたがじきに飽きた。晩飯は生姜焼きだった。大地震に襲われ停電に陥ったにしては豪勢な食事だった。風呂は勿論入れない。皆、毛布をかぶるなり、寝袋に入るなりして眠りについた。夜、何度か余震が家を揺らした。

恐怖はなかった。非日常への楽しさだけが俺の中で湧き上がっていた。

 

目を覚ますと祖母と叔母しかいない。訊くと、叔父は自分の家の様子を見に行く次いでに公衆電話を使って実家の安否を確認するために外出。母たちは近所のスーパーに食べ物を買いに行ったという。俺も同行したかった。

帰ってきた母たちは凄い人ごみだったと語った。いつもはそれほど混まないスーパーも今回の地震で大盛況だったろう。同行していれば、クラスのあの子とたまたま会って、大変だったね怖かったねでももう大丈夫だよ俺がいるからとか話せたかもしれない。

やがて落ち着くと叔父と叔母は家に帰った。外で遊ぶのは危ないと言われ、ゲーム機の充電もできない俺はプロアクションリプレイで使うコードブックの表紙に書かれた二次元の美少女で床オナするくらいしかやることがなかった。余談だが、炬燵で寝ている姉の隣で蜜柑を食べながらシコったこともある。

 

――それからの日々はあまり記憶にない。何事もなく時は経ち、電気が復旧して、ある日今まで砂嵐だったテレビが画面を映した。学校が再開し、姉は高校へ、兄は中学校へ、そして俺は小学校へと向かった。クラスでは地震の時何してたという話題で持ちきりだったが、いずれそれも風化した。

当時の俺は今回の地震、新聞の一面にデカデカと書かれた【東日本大震災】という文字を見ても、それが大変なことであることを納得しながらも、本当にその脅威、規模、被害を理解はしていなかった。まさか何年も続いて二十四時間テレビで取り上げられるような事態であるとは思ってもいなかった。

卒業式が近づく中、原子力発電所がどうのこうのという話を聞いた。それが何を意味するのか、俺は説明されてもわからなかった。聡い子どもなら例外だろうが、俺を含めた同じ東北に住む子どもでも、当時の震災への認識はこの程度だったと思う。

 

そして今、俺はオナティッシュの処理を終えて、窓から差し込む陽光に目を細めている。あれから七年経った。復興は着実に進んでいると耳にする。震災の脅威に晒され、蹂躙され、深い喪失と悲しみを背負った者達が、それでも前を向いて歩いている。俺は依然として童貞だった。

東日本大震災。それがどれだけのヤバイものだったか、俺はメディアによってもう嫌という程理解していた。

俺に出来ることは何か、――そう考えて笑ってしまった。そんな大それた人間かと。こんな矮小で愚かな存在が、一時の感傷でそんな事を考えるなんて、どこか被災者に対する冒涜のようにすら感じられた。

それでも、経験した者として、俺が震災を通して何か出来ることを見出すならば。

 

記憶し、伝えること。

 

それしかなかった。それが俺に出来る、こんな俺にでも許されることのように思った。

先日、俺の姪がこの世に生を享けた。彼女はすくすくと育ち、俺と一緒にお風呂に入ったりなんかして、「おいたんのちんちんおっきいね」とか目を丸くしたりして、筍のように大きくなっていくだろう。いつかは俺の事を好きになり、感情と道徳の狭間で葛藤するかもしれない。

少女は東日本大震災という恐怖を知らないで育つ。だからきっと、テレビで震災の特集なんかを目にした時、きっと好奇心のままに俺に問いかけてくるだろう。幼い心は、当時の俺のように「被災する」というのが本当にどういうことか、というのを理解しきれないだろう。俺は親に阪神淡路大震災日本海中部地震についてたまに訊く。そしてそのエピソードは次の日には忘れている。それぐらいのテンションで少女は俺に質問するだろう。

その時、俺は語ろう。経験し、目撃した者として。

 

 

 

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